共振するハビトゥス

主観が9割

背負わされる人々―嵐の向こうの高橋一生

 

 

嵐を見てよく思うのは、「背負わされてるな~」ということだ。

普段でも、嵐5人が表紙のときは「雑誌創刊○周年記念!」「○○号記念!」など記念的な場合が多い。特に年末、紅白歌合戦があれば出場するにとどまらず、司会をやり、トリまで務めたりする。5人でCMとなれば大手企業だけでなく、観光庁のナビゲーターとして日本をアピールする。前期の日曜劇場「99.9」にしても、続編制作では「日曜劇場100作品目」という冠がついていたりする。

嵐に背負わされる役割、重すぎやしないか?

このような役割、多くの場合嵐自身から望んではいないだろう。「紅白に出場したい」とは語っても「紅白のトリをやりたい」とまでは言う人は少ない。こういった大きい役割は国民全体に知られた存在でなければできないが、重荷であり面倒なのか、皆が思い浮かべる人はやらない。しかし様々な利害関係もあってか、嵐は引き受ける。

このような役割は「国民的な認知」を獲得したものの宿命なのだと思う。

例えば、先ほども出てきた紅白歌合戦。誰が言ったわけでもないが、紅白歌合戦は世代を超えて誰もが知っている歌を組み込む必要がある。それは、国民の多くが見ている番組ということを番組自体が自覚し、そうしたふるまいを自ら選択しているということである。嵐もそうした役割を自ら背負っている節がある。

 

嵐はいつからそうなったのだろう。こうなるきっかけは2009~2010年にあると思う。特筆すべきはバラエティ番組で、2009年の10月にVS嵐がゴールデン帯の時間におり、半年後の2010年4月に嵐にしやがれが土曜22時というこれまたゴールデンの時間に始まった。

それまではお昼や深夜、つまり番組をわざわざ見たいと思う層(要するにファン)に向けた番組づくりがされており、実際視聴者であるファンもそれを望んでいた(今なお深夜の頃の番組企画は人気がある)。しかし、ゴールデン帯におりるということはファン以外の全ての層に受け入れられる、人気を獲得できる番組にする必要がある。その過程で、局の思惑か番宣のためのゲストが多くなったとしても、ファンのための番組ではないから仕方がない。局が視聴率をとるためにその存在を利用される、そういう大きな存在になったのだ。

 

昨年高橋一生を見ていて、嵐と似たようなことが起こっていると感じた。上半期にブレイクし、その年の10月期に朝ドラと月9に出演したことだ。彼自身の芝居の力だけでなく、その人気や話題性を含め「彼を出せば数字につながりそう」という、本来の役割以上のものを「背負わされている」 。今年に入ってCMも増え、俳優以外の活動も増えている。いまや誰に「高橋一生」の名を聞いても知らぬ者はほとんどいない。ここまでの認知を獲得した人物は昨今の芸能界では「貴重」だ。俳優としてだけでなく、その国民的認知を利用した役割が課せられる。それは俳優としての仕事にも影響があるだろう。作品に出ること以上に、高橋一生が出演する意義が強調される。それが本人の望む方向かはわからないが、人気が出る、皆が知っている存在になるということはそういうことなのだろう。

それが本人たちにどんな影響を与えるのか、これからも推しを見るのが楽しみだと思った話。