共振するハビトゥス

主観が9割

推しの活動休止に関して

 

 

あの日、私はスーパーでバイトしていて、タイムカードを切ってスマホを点けたとき、Yahooのポップアップ通知がそれを知らせたのでした。

 

「嵐、2020年で活動休止」

 

それを見た瞬間全てを悟り、私は一人で喜びのあまりガッツポーズしました。

意味がわからないと思いますが、もちろん活動休止に対して喜んだのではありません。大好きなグループが、あまりにも私の理想の「おわり」を迎えることが嬉しかったのです。

 

この数年、いろいろなことがありました。芸能界でも様々なことが起こりましたし、私自身もファンとして様々な心境の変化がありました。「好きなものを追った」だけなのに、それを煮詰めすぎて好きが呪いのようになったり、とかくファンとして推しを応援する姿勢について考えさせられた数年でした。

 

様々なことを感じて考えて、結果至った結論が「終わらないものはない」ということでした。永遠に続くものはない。それは推しも例外ではない。いつか何らかの形で終わりを迎える。そうしたときに、その終わりを受け入れられるファンでありたい。そう思うようになりました。

しかしそれを考えていくうち、ファンとしてエゴイスティックな願いも持つようになっていました。もし終わりを迎えるなら、ファンがそれを受けとめるだけの期間が欲しい。それに向けてとは言わずとも、ファンへのコンサートやイベントはやってほしい。それでなくても、あれだけの大きなプロジェクトが終わりを迎えるのなら、スポンサーとの兼ね合いやイベントを催すにしても準備の期間が必ず必要になる。だから、終わるなら終わりまでの時間が欲しい。

こんなことを考えて、私は母や友人に「嵐の理想のおわり方」について話しまくっていました。聞かされた人にとっては本当に迷惑な話だったと思うのですが、話すことで自分のなかに覚悟ができていったような気がします。そして何より、この理想を実現できるグループだと本気で信じていたので、もし終わるときは理想を叶えてほしいと願っていました。

 

そして発表を聞いて、あまりにも理想的で、そしてその理想をも上回る形だったので驚きました。ここまでずっと「おわり」と書いているように、私はもしグループに何かあったらそれは解散で完全におわりだろうと思っていたので、活動休止だったことにも驚きましたが、何より彼らがやはり奇跡的で、そしてあまりにも強かだったのでびっくりしたのです。

 

振り返ってみると、この決断から発表まですごいことだらけだなと思います。

まず、5人で活動休止に至ったことについて。もしこれがソロプロジェクトなら、トップは1人ですからそのトップの意思次第でプロジェクトはどうにでもなります。しかし5人も同じ立場の人間がいて、「辞めたい」「続けたい」という意思が5人で揃うはずもなく、そもそも綺麗に休止に落ち着くこと自体が奇跡的なんだと改めて思い知らされました。

過去のインタビューなどを見る限り、メンバーの考えに「引き際の美学」があるのではないかと思うことは何度もありました(だからこそいつかおわりを迎えるのだろうと思っていましたし、理想のおわりを迎えてくれるだろうと期待していたところもありました)。しかし、もしおわるなら、あれだけの影響力を持つグループが引き際として何を契機におわるのか、外部の人間はもちろん、メンバーであってもわからないでしょう。「このタイミングで活動に区切りをつけるべきだ、なぜなら」という根拠を示すことは難しいはずです。しかし、それ以外の形であれば「方向性の違い」や「仲違い」などネガティブな結論しかありません。

それを、最終的に「大野さんの提案で」活動休止に至ったのは本当に奇跡的というか、あまりにも嵐らしくてどうすれば良いかわかりませんでした。考えうる限りでも、最も前向きで、かつ休止という決断に至るには「嵐として」十分な、最強の理由ではないかと思ったのです。

 

そして、発表後。案の定様々な情報が飛び交いました。ファンにとっては最高にネガティブな瞬間ですし、最も動揺するタイミングで怪しい情報であっても自分の信じたいように信じてしまいそうになります。しかし、彼らは会見の瞬間から最大限に求心力を高めたパフォーマンスをしていると感じます。外野からどんな攻撃をされても全て跳ね返すだけの準備とそれぞれの武器を持って現れ、「信じるべくは自分たちの言葉だけ」と発信し、ファンのバラバラになりそうな心をできる限り一つにまとめ前に進んでいく(しかし、あくまで応援するファン自身のスタンスはこちらに任せながら)。歌番組でもバラエティでも、彼らの発信する言葉の力を常に実感します。休止に至るまでの理由にしろ今後の活動のスタンスにしろ、彼らを信じることができなければとても前向きにはなれませんが、今の彼らを見て「とにかくついていくのだ」という気持ちになるのはすごいことだなと思います。というより、発表から2年後までの間、彼らがやりたいこと、実現したいことを余すことなく見届けるためには、必死に彼らについていくしかないのですが。

 

こんなことを現段階で記すあたり、私のなかでは彼らがこうした判断をした時点で一定の整理はついているのかもしれません。永遠はない、という認識が想像以上に自分のなかで受けとめられていたのだろうと思います。しかし、嵐を好きになり、好きになったことが自らのアイデンティティの形成にまで関わっているという人は少なからずいるはずで、そして私もその一人で。だからこそ彼らがいなくなることは本当に大きいことなのです。しかし、こうした契機がなければ、好きなものが自分にとってどんな存在か、どれほど大きいものだったのかなんて考えることもないわけで、2020年末まで私はずっと彼らがどんな存在だったのか考え続けることになるのだと思います。そして実際にそのときを迎えたら、彼らがいない2021年以降をどう過ごすのか、正直想像もつきません。しかし、そんな未来を見据えながらも必死に彼らについていくことしかできないのです。