共振するハビトゥス

主観が9割

『熱帯樹』1ヶ月越しの感想

 

 

2月28日、念願の公演「熱帯樹」を観劇した。
今回はその感想を記しておこうと思う。本当は観ていない方にも伝わるような文章を書きたかったのだが、私自身劇場を出れば演者の服の色も忘れるほど記憶力が乏しい人間であること、また今回の感想は自分のパーソナルな部分にも触れないと書けないと判断したため、いろいろと開き直って書くことにした。恐らくぶっ飛んだ感想で何を言っているかわからない仕上がりになりそうなので、一読される前に注意していただきたい。

 

 

物語はベッドの上の郁子が小鳥に話しかけているところに、勇が入ってくる場面から始まる。郁子は想像以上に華奢でないな、というのが第一印象だった。病気であるという先入観と、その後の台詞の精神年齢と比べてのことだったかもしれない。
びっくりしたのが、勇が登場したとき、私の感情があまりにも「無」だったことだ。あまりにも波立つものがなかった。
言っておかなければならないのは、普段私は林さんの写真を見るだけでもあからさまにニヤけるほど、林さんの姿を見ただけで何らかの反応をする人間なのだ。メディア越しだけでなく、別の機会に生で拝見したときも、林さんを認識した瞬間脳が爆ぜる感覚があった。しかし、このときばかりは何も感じなかった。どころか、林さんの登場に一瞬「ひっ」と総毛立つ客席の様子を感じて面白くなっていた。
この「無」であった印象は、公演の最後まで続くことになる。
続いて登場する律子。本当に驚いた。戯曲を読んだ際のイメージだった、どこまでも妖美な女で親である自覚のなさそうな姿はそこにはなかった。思ったよりもずっとかわいらしく、それでいて悲壮感が漂っていて、夫の言いなりになることに諦めを持ちつつ親になりたいと願ってもなりきれない哀しみを感じた。派手な着物の赤に痛々しさが滲んでいた。
こんなことを感じているくらいなので、私がどれだけ律子に感情移入してしまったのかわかってもらえるだろう。これは私にとって予想外のことで、戯曲を読んでいた段階とは見方がかなり異なってしまった。
最も戯曲を読んだ段階の想像の通り、役が立ち上がって見えたのは恵三郎かもしれない。圧倒的な存在感と放たれる台詞、チャーミングさも含め、眼前で人間として立ち上がる恵三郎は只々すごかった。
そして信子。戯曲を読んだ際は、未亡人で夫の死に打ち拉がれている人物を想像していた。しかし舞台の上の信子はしゃっきりとしていて、何かを悟ったような佇まいだった。家庭教師か、宗教に携わる人のようだった。戯曲を読んだ時から最も感情移入の仕方が変化しなかった人物かもしれない。これに関しては後述する。


この物語には、何度も「殺す」「心中」など死を思わせるフレーズが登場する。とはいえ、今回の公演ではこれらのフレーズにリアリティを感じなかった。これは、戯曲を予習したことで展開がわかっているからなのか、その効果もあるとは思うが、パンフレットを読む限り概ね演者側と私の解釈は一致しているように思えた。〇〇を殺してほしいという言葉の前には必ず「私を見ているなら〇〇を殺してほしい」「私を愛しているなら〇〇を殺してほしい」と前置きがつく。この前置きこそがメッセージであるが、彼らは直接的にそれを伝えることはしない。あくまで「殺して」という言葉の修飾で表現する。そこには死に対するリアリティなどなく、それどころか力強い生命力を感じる。郁子が小鳥を殺す場面も、小鳥が死ぬというより、郁子自身が小鳥の命を奪うことができるほど、まだ生命力が自分にはあるのだと実感することこそが重要であるように感じられた。だからか、最後の心中に向かう場面も、死へと旅立つリアリティを感じてはいなかった。この家からあの二人は出ていった、それ以上でも以下でもなく、その先を考えることもあまりしようとは思わなかった。
その分、勇と恵三郎が取っ組み合いになる瞬間、あの場面の緊張感は凄まじいものだった。唯一死に隣接した、狂気の空間。恵三郎に覆いかぶさった勇が、ギラリと光った目で不敵に笑うのを見て、ああこれを観に来たのだと実感した。(とはいえ、本当に記憶力が乏しいため、そういった表情をしていたという事実を覚えているだけで実際の表情は覚えていない。ぜひ映像化を期待したい。そして勇の表情がカメラに収められていることを心から願っている)

とかくこの家族は、家族の他に広がる社会が彼らには見えていないのだろうと想像させる。恵三郎の金持ちの論理や、信子の語る夫の像など他者の存在は感じられるが、広い社会を見渡してから家族が互いを選び取ったのではなく、彼らの社会にはこの家族しか存在していないために、こんなにも絡まった関係性になったのだろう。

 

 

信子について話をしたいが、完全に話が逸れてしまう。
私は最近、映画やドラマのエキストラに参加する。エキストラといえば大体は「大衆」になりきることなので、作品で呼ばれる際も大体は大衆が集まる公衆の場、つまり通行人やカフェの客、結婚式や葬儀の参列者という設定が多くなる。
何度も参加して感じたのだが、エキストラに参加した際、「作品の中でストーリーが動いた」と感じる瞬間に立ち会ったことが殆どない。これは私の運の問題かとも思ったが、恐らく違う。ストーリーが動く瞬間は、公衆の面前の前では殆ど訪れないのだ。大体は、職場や家庭内など、パーソナルな場で起こる。
そして、私はパーソナルな場で起こる「ストーリーが展開する瞬間」を見たくて、この公演を観にやってきた。果たして、おわりを見にこの家庭にやってきた信子と私で、一体何が違うのだろうか? 
戯曲を読んだときも、実際に公演を観た今も、この感想は変わっていない。信子は私の中で、この家族の崩壊を覗き見にしに来た観客の眼を可視化する存在であった。信子の行動を怖いと評する人がいたが、どうにも信子が他人事には思えないのだ。

 

ここまで脈絡もなくつらつらと記述してしまった。
最後に、公演を観て私が戯曲の段階で何を求めていたのか浮かび上がったことを記しておこうと思う。
今回想定外だったのは、思っていたよりずっと律子に感情移入してしまったことである。思えば、戯曲を読んだ際信子は別として私は誰にも感情移入していなかった。近親相姦や心中というモチーフ然り、金持ちの論理を振りかざす父親も淫靡な母親もリアリティのない人物像であった。私自身兄弟もいない一人っ子のため、兄妹の間に起きうる感情すらイメージがついていなかった。信子に関しても視点に共感はするものの、抱えている背景に関して理解が及んでいるわけではない。何もかも本の中でしか読んだことのないようなフワフワしたイメージであり、だからこそ生身の人間がこの作品を立ち上がらせるとどうなるのか興味があった。あのタブーは、死と隣接した人の中に眠る狂気は、生身の人間によってどのように表現されるのか。ある意味夢幻劇を期待していたのかもしれない。
しかし、目の前で展開された芝居にファンタジーな要素を殆ど感じず、それどころか登場人物はみなどこまでも人間臭く生命力に溢れていた。
律子に感情移入した点ではもう1つ、律子に比べあまりにも勇や郁子に感情移入しなかったことも言えるかもしれない。律子のおかれた状況が比較的想像しやすいのに比べ、兄妹の行動の動機となる部分が想像しづらかった。前回のブログに引用した中で、演出家の宮城聰氏が熱帯樹をはじめとした近代劇の特徴について「自分がなにをしたいかということが本人にも分かっていない」と述べていた。この兄妹はまさに「自分が何をしたいかわかっていない」状態だったのではないか。どのキャラクターも「何をしたいかわからない」状態なら誰にも感情移入しなかったのだが、今回律子には感情移入してしまったために兄妹の行動の動機が理解しきれない点があった。

この日以降の観劇レポートを読むと、ブラッシュアップされた箇所がいくつもあるようで、この1回しか観劇できなかったことが改めて悔やまれる。ぜひ何らかの形で映像化されることを祈っている。